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陸上と私

今流行っているマラソンの様にネチネチと何時間も走るのは得意で無く、短い距離を

バーンと走るのが小さい頃から得意だった。と、言っても72歳になった最近はバーンと走るのは危ないので駅の階段でも極力手すりに手を掛けて降りる様にして居る。

足の速いのは遺伝(DNA)なのか、5人兄弟(戦前に亡くなった二人の兄を加えると7人兄弟)の中で大正14年生れ、大分前から認知症となり関西に居る超優秀な長姉(昭和28年東大法卒刑事訴訟法専門)を別にすると、7歳年上の兄貴(野球)4歳下の妹(バスケ)も私同様足早く、17年前にGettysburgで亡くなった5歳上の姉も府中(学芸大付属中学)の頃、砲丸投げをやって居た記憶あり、兄弟は皆アスリートだった。

私も小さい頃から速かったが、中2から高3までの5年間は硬式野球部に所属して居た。

練習最後に塁間一周のベースランニングをやったが、前の選手がホームベースをスタートし、一塁との中間辺りで次のランナーがホームをスタートする、私がスタートすると2塁手前で前のランナーに追いついてしまい、制動を掛ける必要が有った記憶がある。陸上との最初の関わりは中2の時、陸上部の奴より速かったので放送陸上で新宿区大会に200で出場、25秒位で優勝し神宮競技場の東京都大会に出た事がある。野球はヘボでたまにピンチランナーやる位だったので大学でついに陸上部に入った。100、200よりも何故か400米が得意となり、関東陸上インカレ(2部)決勝で50秒3で2位になった頃が最高だった。

兄貴が1961年MBA取りEugeneから戻った後、日揮(旧日本揮発油)に居た私も1965年にオ大の大学院に入った。オレゴン大の陸上の事は兄貴にも聞いており、兄貴の頃はマイル(1600米)を3分台で走ったDyrol Burlesonと言う凄いランナーも居た。私がEugeneに居た2年間は今は無いパン工場に接したBean Hallに住んだ。週末になると、同僚の細田悌治さん等を誘い、ヘンドリックス・パークの辺りをjoggingした思い出が懐かしい。1965年当時は陸上部のコーチ(監督)だったBill Bowermanが未だ居たが、彼は家でワッフル用フライパンにタール等を流し込みランニングシューズのソールを試作しては教え子に履かせて走らせて居た。Coos Bayから来た伝説のランナー、Steve Prefontaineも彼の教え子の一人だったが残念な事に自動車事故で早く命を失った。このワッフル・ソールこそ後のナイキ社が創立される基礎となった。

私がBean Eastに入った翌年にWade Bellと言う800のランナーがBeanに入って来た。彼は1968年のメキシコオリンピックに出たが、肉離れで入賞はしなかった。私が大学の陸上部(学習院)の監督をやらされる羽目になったのは、市民マラソン・ランナーの星、川内優輝が大学に入って来る前の事だった。川内は春日部東から奨学金を得て学習院に来た文武共優れた礼儀正しい男で時々会うが、箱根駅伝選抜の6区(山下り)を皮切りに東京マラソンで優勝等で一躍世の脚光を浴びたのは皆様ご存知の通りだ。彼のお陰で韓国大邱やモスクワでの世界マラソンにも家内と応援参加する機会に恵まれた。

こんな訳で、陸上とは縁が切れないが、時々近くの駒場東大のトラックで軽く走ったりして昔を思い出す今日この頃だ。  

 私の自宅の机の上に一冊の分厚い本がある。タイトルは「Bowerman and the men of Oregon」と言い何年か前にEugeneで手に入れた。英語の為なかなか全部読めないがオレゴン大陸上部を全米トップにした偉大なコーチ、Bowermanの生涯と多くの優れたランナーの事が詳しく書かれており、生きてる内に全部読みたいと思って居る。


2021年1月12日値松木信武

 
 
 

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