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「1980年代の中国事情」

南山会との出会いは、高校時代の同期村岡泰夫君の紹介で、小生台湾駐在から東京へ戻ったころでした。多分野の方々の集まりで色々な話題で大変ためになる会なので入会しないかと誘いを受けた事に始まった。会長をしていた田中俊太郎氏とは大学時代お互いに運動部(俊太郎氏は空手部、小生は軟式野球部)でお互いの顔は承知していた。それ以来約四半世紀にわたり会合に参加させていただいている。南山会のことについては先輩各氏より、その都度述べられているので割愛させていただき小生の人となりを述べ本題の中国事情について進めてゆきたい。

小生は、オリンピック後の大不況の後1967年日立の家電品販売会社に就職した。その当時は大学卒業予定者であっても3月まで就職先が決まらない人間もいたほどの不況であった。入社後業務は主に本社で技術部門の企画業務で事務の機械化等を担当し約20年本社一筋で会社生活を送った。転機が訪れたのは国内部門から当時成長著しい海外部門に(1981年)異動してからである。海外を担当して如何に今まで「井の中の蛙か」ということを思い知らされた。国内で海外部門の業務で主に東南アジア、中国関係の業務を担当した。その後1991年~1994年まで経済成長の著しい台湾(台北)で現地駐在員として生活を送った。現地で生活することによって日本を客観的に見つめることができ以後の生活において大きな影響があった。


小生の趣味等プライベートのことについて若干触れておきたい。

幼少時のころより好きだった鉄道趣味が年を重ねても薄れることなく、現在日本全国JR、私鉄、第3セクター、地下鉄、モノレール、路面電車、トロリーバス等日本全国定期営業路線(約27000KM)は全線乗りつくしております。

又、野球は東京6大学野球リーグ戦、高校野球、社会人野球、プロ野球(当然ヤクルトスワローズファン:元国鉄スワローズ)の観戦、応援。又美術鑑賞等を趣味としております。


現在中国は米国に次いで世界第2位の経済大国でありますが、これから述べる中国事情は中国が発展途上段階での一面です。小生が中国を最初に訪れたのは1985年の上海、北京でした。その間、今も中国政府が触れてほしくない「6.4」事件の前後にも出張で北京を訪れ世の中の大きな変化についても目撃いたしました。

「6.4」以前に付き合っていた取引先の人間で運動に積極的に参加していたと思われる人物が「6.4以降突然我々の相手から姿を消し、誰に聞いても分からないといった状況であった。その当時、中国では密告制度があり、親、兄弟、知人等関係なく密告が行われていた。




1980年代の中国事情


1.出入国(入境、出境)

  先方(取引先)より「INVI」をもらい、これをもって中国大使館に行き「VISA」

申請。その後は「INVI」を入国時提示すれば入国可能。

中国の入管にはその当時から台湾同胞の窓口があり、準国内扱い。


2.通信事情

  先方とは「テレックス」で情報やり取り。のちに「FAX」でやり取り可能

  (主に中国側が「FAX」が普及していなかったため)

  電話 全て交換経由、(日本から中国へは時間の単位で待たされた)

  中国にも公衆電話があったが、殆ど役立たず。北京、上海、広州ですらホテル、空港以外の公衆電話は(屋外)受話器が外されており使用不能が多い。従って空港の公衆電話は長蛇の列。


3.通貨

  外国人向けに 兌換券(1国2通貨)。外為管理上、外国人専用通貨を発行。

  空港、ホテル、銀行のみで外貨を兌換券に交換できる。(レートはどこで両替しても同一)現地の人は兌換券を欲しがる:外国人でしか購入できない輸入品等を購入できるから。又、地方へ行くと兌換券を知らない人がいる。


4.交通事情

  日本との航空便は、国際線はJAL,中国民航(CI)のみ。国内線は CIのみ。

  運賃は外国人料金、中国人に比較して2~3倍の外国人料金。

  CIのCAはすべて共産党幹部の子弟、(外国人と接する機会が多いため、不特定の人間はCAには就けない。又サービス意識はないため乗っていただいているではなくほとんどのCAは乗せてやるといった態度が多い)座席を予約しておいても、突然キャンセルされる。共産党幹部等が出張で座席を取ってしまうことあり。これらについて問い合わせても知らぬ存ぜぬの一点張り。又遅延等があっても状況説明は無し。

  鉄道も同じ(軟座:グリーン 硬座:普通)外国人料金。硬座は余程でない時以外、外国人は殆ど乗らない。混雑していて汗の匂等で車内は臭い。(自宅に風呂が無いため風呂入る習慣もない)北京市内のバス、地下鉄ですら出張者はほぼ乗車できない(大変混雑している為)タクシーは流しがなく、駅、ホテル、空港以外ではまず乗れない。その為顧客訪問の際はタクシー又はハイヤーを半日もしくは全日貸し切らねばならない。

  祝日はパトカー、救急車、勤務先等の公共自動車が家族の足となっている。(自家用車はほとんどないため。)


5.宿泊

  大きな国際ホテルはほとんどない。その為出張者は相手先の宿泊施設(いわゆる招待所)に宿泊することも。招待所:事業所が国内からの出張者等を受け入れるための宿泊設備。

  外国人向け主要なホテル

  北京 北京飯店、長期駐在者向け:新橋飯店、京倫飯店(JAL系)

     1980年代後半に、長富宮飯店(ホテルニューオータニとの合弁ができた。

  上海 錦江飯店、花園飯店(ホテルオークラとの合弁)、日航ロンパイ(JAL系)


6.食事

  ホテルではいつでも食事がとれず、営業終了間際に行くと従業員の機嫌が悪い。

ビールは生ぬるいのが当たり前、ぬるいというと氷を持ってくる。(冷やして飲む習慣がない、各家庭にも冷蔵庫が普及していない為)

大都市、上海ですら日本料理店はなし。

宴会費用、同じメニューであっても中国側主催の料金と日本側主催の料金では異なる。(当然、外国人料金の方が高い)又、記念祝典等の場合来賓が極めて多くなる。(公安、税関、裁判所等関係先を招待:輸出入の便宜を計ってもらう必要があるため)

北京の新橋飯店では日本式の菓子パンがあり日本人には好評であった。祝日等、「万里の長城」、「明の13陵」へ行くとき、昼飯代わりに持参。当時は北京から車で3~4時間要した。(当時、高速道路なし)


7.駐在員の主な業務、住宅

  出張者の「宿の確保、移動チケット購入、食事の場所確保」が、現地での業務の大きな 

  柱。又、駐在事務所等の経費でも家賃の値上げが事後通告、遡って請求される事もあり。一般的なマンションはなく 家族帯同者はホテルの部屋を2~3室借りて生活。


8.物流

  物を運ぶにあたり丁寧に扱う習慣なし、単に所定内に移動運搬すればよいという考え。

  従って、日本仕様の梱包状態では、製品の破損が多発した。その為日本企業は、運輸労働者に対する教育と併せ、梱包を二重包装するとかして破損の低減を図った。

  年末になると町のあっちこっちで白菜の山積み(正月用)がみられた、物流が悪く表面は茶色に変色したものだらけ。(生産地から消費地に向けて日数を要するため)



9.取引先

  各種契約においては全て北京の承認が必要(上海は北京に対し競争意識が高い。)

  契約に当たっては、ドンテン返しが度々あり。(担当レベルでOKでも)、最後には日本は戦前中国に多大な迷惑をかけたのだから、金額等値引くのが当たり前。戦後賠償を請求しなかったのだからと平気で言ってくる。新製品の技術教育でも代表が参加するが展開教育は無理。(自分の得た知識は決して他人へ教えない)

  工場内では何も仕事をしない人間がいた(ただ新聞を読んでいる)いくら真面目に働こうがいい加減に働こうが賃金は同一。頭の良い奴ほど働かない。


10.新聞、週刊誌、TV

   日本からの持ち込みはチェックがあり、内容によっては没収された。週刊誌で女性の裸のグラビア写真は持ち込み禁止で見つかると没収された。   

   1980年代後半から NHKBS放送が大きなホテルでは見られるようになった。


11.土産物の買い物

   旅行者は主に空港 友諠商店(FRIEND SHOP)で買い物をするが

   先ず窓口で購入商品を記載し、その伝票をもって経理部門で入金し、入金伝票をもって品物の受け取り場所へ移動し商品を受け取る。客があちこち動いてようやっと購入可能となる。一人の人間に全てを任せると不正が発生、その為分業となっている。(人を信用しない国民性)

一般のお店でも外国人は兌換券でなければ商品を購入できない。


                                      以上

2021年1月27日

田中良忠


 
 
 

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1件のコメント


南山会会員
2021年1月27日

大塚です。私は80年代後半に産まれましたので、田中さんが書かれた内容は目に浮かぶ光景ばかりでした。

電話は、あの頃どこにでもある物ではなく、「小売部」という個人売店にあったりして、1角(0.1元)くらいで市内電話をかけられていました。

列車は「硬座」の車両は、同席した人のひまわりの種を平気で食べていたので、殻が車両の中に散在していました。「軟座」や「臥舗(ベッド)」などが走ったあの緑色(たまに青、時々SLも)の列車はもうなくなりました。

車はまさに仰る通りで、運転する部署があり、運転手は休みの日に勝手に(もちろん上司優先)車を使えていました。今でも私が親戚のいる都市に行くと、車を手配して(運転手つき)迎えに来ていました。

ビールは冷蔵庫がないのもそうですが、体を冷やしてしまうのはよくない(特に内側から)ことから、冷たいものを飲むのも食べるのも基本だめと教わりましたね。今でも広州に行けば真夏でもあったかいお茶がただで出されます。日本7-11が中国進出した際も、冷めたお弁当はなかなか売れなかった時期があったそうです。冷たいのと、残りものに思われたんでしょう。

通貨は人民元でしたが、「料票」があり、米と卵を交換していたと覚えています。年末になると肉を配られていました。いずれも80年代末の記憶です。

懐かしくなり、いろいろコメントを書いてしまいました。

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